夏目漱石眼中的日俄战争——以《三四郎》为中心

来源:网络(转载) 作者:黄倩 发表于:2011-12-19 16:09  点击:
【关健词】日露戦争 物質的 精神的 皮肉
夏目漱石は日本の小説家で、森鴎外と並ぶ明治?大正時代の文豪である。1984年から2004年まで発行された千円紙幣に肖像が採用された。『三四郎』は夏目漱石の有名な長編小説で、『それから』『門』へと続く前期三部作の一つである。この作品が1908年、つまり日本がロシア

 一、 日露戦争は日本人に何をもたらしたか
  (一)物質的な面
  三四郎は汽車で、ある女、爺さんと出会って、二人の対話を聞いた。この爺さんの息子が「戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった」大事な子は殺されたばかりではなく、物価は高くなって、生活が苦しい。また、この女の旦那さんは「呉にいて長らく海軍の職工をしていたが戦争中は旅順の方に行っていた。戦争が済んでからいったん帰って来た。まもなくあっちのほうが金がもうかるといって、また大連へ出かせぎに行った。はじめのうちは音信もあり、月々のものもちゃんちゃんと送ってきたからよかったが、この半年ばかり前から手紙も金もまるで来なくなってしまった。」幸いなことに、激戦地で死を免れたが、戦後の景気が良くないので、男はまた大連へ単身赴任に行った。その男は不実な性格ではないが、突然仕送りも音信も途切れて、安否さえ分らなく、世の中が乱れる時期に、たぶんひどい目に遭ったかもしれない。「世のいい時分に出かせぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。」可哀相な女は本当の未亡人ではないが、未亡人の生活ほども安定ではなく、自分で生計を立てられなく、未亡人のように政府から賠償金をもらえなく、自分の夫が浮気な男ではないことを信じて、里へ帰って待つほかない。
  いったい戦争はなんのためにするものか。もちろん、日露戦争を契機に、兵力物資の輸送のため、鉄道状況が一挙に変わった。だから、三四郎は福岡県から汽車に乗って上京できるようになった。さらに、市電を利用する事で都市住民の行動半径が大きくなり、新しい繁華街が形成されていき、東京の生活、風景を大きく変えた。一方、その女と爺さんにとっては、大切な家族も失ったし、生活も相変わらず貧しいのだ。鉄道網も電車のネットワークも整備されていったが、生活のレベルが高くならなかった。
   つまり、戦争は物質的な面で、日本の民衆に豊かな暮らしをもたらしたわけではなく、むしろ、戦後の生活環境がさらに悪化した。
  (二)精神的な面
  郷里の熊本を出る三四郎は井の中の蛙であったら、美禰子はあの時代の新しい女性だと言っても過言ではない。知識があり、三十円もの金を自身の判断で三四郎に貸すことができるほどの経済的余裕がある。そういった女性は、明治の時代では稀であった。三四郎は美禰子に謎めいた恋心を覚え、美禰子は三四郎の純朴さに恋をする。「迷える子――解って?」という謎めいた言葉を三四郎にかけるが、これには三四郎に前進して欲しいという気持ちが籠っていたものと考えられる。三四郎は美禰子に胸中を告白するまでに成長したが、時既に遅かった。間接的な言葉ではあるが三四郎が告白をした時も、美禰子には意味が通じなかった。この時点でおそらく美禰子は結婚の意志を固めていたのだろう。そして美禰子は贖罪を求めるかのように三四郎へ呟く。「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」これは、新しい女性像を理想としていても、旧態依然とした結婚のしきたりに従うことしかできなく、とうとう自分の兄の友達と結婚した美禰子が自分を非難した言葉だと思われる。
  日露戦争後、日本は近代化への道ですこし進んだが、本当の文明国家になったわけではない。美禰子は西欧のことをたくさん学んだが、精神的な面では、西欧の女性の独立、自立を身に付けなかった。当時の女性は夫や親に依存しない限りは生きてゆくことができなかった。父親を亡くし、兄と暮らしていた美禰子は、兄が結婚するに伴って、何か他の依存対象を見つける必要に迫られていた。当時を生きる上で不可欠であった『家』という制度が顕著に現れている。美禰子は今までの『家』から新しい『家』へと移る人生の過渡期において、その時期に田舎出身の三四郎に出会った。美禰子は現実問題を前にして悩み苦しみ、そして最後は諦らめて現実を選んだ。
  一方、三四郎も美禰子と同様、本質的なものを理想としていたくせに、夢ばかり見て現実に阻まれ、一番大切な物に手を伸ばそうとしていなかったのだ。三四郎はそのことを、美禰子を失った代償として理解した。『三四郎』では三四郎と美禰子の両方に、その時代の中で向き合わなくてはならなかったものがある。二人は優柔不断で、欧米人みたいにほかの物に縛られず、自分の夢を追い求める勇気がないのだ。
  二、戦争を皮肉る知識人
  三四郎がまた汽車で髭を濃く生やしている広田先生と出会った。現状に不満を抱いている広田先生は「どうも好きなものにはしぜんと手が出るものでね。しかたがない。豚などは手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛って動けないようにしておいて、その鼻の先へ、ごちそうを並べて置くと、動けないものだから、鼻の先がだんだん延びてくるそうだ。ごちそうに届くまでは延びるそうです。どうも一念ほど恐ろしいものはない」と言って、戦争を引き起こした日本を美味しい食べ物を見ると無暗に鼻が延びていく豚に例えた。
  「もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、??あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない。」日本が日露戦争に勝っても、相変らず弱く、日本の建物も庭園も国民の弱い顔に相応しい、ただ富士山が自慢に値するが、昔からあったもので、べつに戦利品ではない。また、日本が敗戦国から物質を奪い取ったが、富士山と肩を並べるほどの美しいものがない。
  また、田舎から出たばかりの三四郎は列車の窓から西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしているのを一生懸命に見惚れていて、自分が西洋へ行って、こんな人の中にはいったら、さだめし肩身の狭いことだろうと考えた。すると、広田先生は「お互いは哀れだなあ。こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。」と言い出した。「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と三四郎は弁護したが、広田先生は「滅びるね」と言った。日露戦争が済んだばかりで、全国の人はこの勝利の喜びに浸っている。だが、その時、広田先生は「滅びるね」と言って、三四郎をびっくりさせた。夏目漱石も教鞭を執ったことがあるので、広田先生がこの小説で作者に似ていて、広田先生の言葉も作者の心の声だと思われる。領土を広げるために、一等国になるために、日本政府は国民の安否を顧みなく、戦争を始めることも惜しまない。戦争を手段として発展する国は豊かになるはずがなく、いつか滅びるだろう。この場面は、夏目漱石が広田先生の口を借りて日本の将来に対する警告を発したのではないか。 (责任编辑:南粤论文中心)转贴于南粤论文中心: http://www.nylw.net(南粤论文中心__代写代发论文_毕业论文带写_广州职称论文代发_广州论文网)

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